【けものフレンズ】存在することと本当の愛
カクヨムにけもフレ小説を投稿した。
kakuyomu.jp
ふと、かばんちゃんの顔が遠くに見えた気がした。
こんなにも近くにいるのに。体温を感じるほど、すぐそばにいるのに。
サーバルは少し混乱して、そして、自分の胸に熾火のように灯る何かを感じた。
かばんちゃんはすごい。
けれど、すごいから、時々サーバルの考えを大きく飛び越えて、一息に高い場所まで行ってしまう。
サーバルはそれに追いつくのに苦労する。そもそも、追いつけないことも多い。
ずっと、並んで歩いているつもりでいたのに、いつの間にか、かばんちゃんはサーバルの前を歩いていて、自分はそれについていっている。
それがちょっと、寂しい。
さばんなちほーでひとりで暮らしていた時は、こんな気持ちにならなかった。
かばんちゃんと出会ってからだ。こんな思いを抱くのは。
かばんちゃんはどこまで行くのだろう。どこまででも行けると思う。
けれど、サーバルはどこまでついていけるのだろう。
さよならするまでは、できるだけついていきたい。
そんなことを考えながら、サーバルは眠りに落ちた。
こんなパートを小説の中に挿入しようかと思ったが、結局入れられず、こっちに書いた。
以下、あとがきのようなもの。
『けものフレンズ』の小説を書くにあたって、一人称視点というのは真っ先に除外した書き方だった。
どのキャラクターの視点を取るにしても、どうしても不自然になるか、書きづらすぎて筆が止まるかしそうだったからだ。
作中のフレンズは実に十人十色で、最もよく知っているはずのサーバルですら、私には内面を十分に理解しているとはいいがたい。
しかし、前述のような文章は、サーバルにはふさわしくないと最終的に思い、入れることはしなかった。
サーバルはかばんちゃんの働きがどうだろうと、褒めこそすれ、寂しがることはないと思ったからだ。
フレンズによって、得意なことは違うのだ。
自分と相手の距離が離れてしまったと感じるのは、人間的な錯覚だ。それによって、相手に近づいてきてほしい、言い換えると、変わってほしい/変わってほしくないと願うのは、傲慢なのだと思う。
サーバルは、そういったことを願いはしないだろう。
そして同時に、寂しがりもしない。
サーバルは、かばんちゃんの能力を褒めると同時に、『存在すること』の喜びを知っているのだと思う。
だから、かばんちゃんがてんでダメダメに見えた頃から、一貫して優しく、許容し、寄り添ってくれる。
それがつまり、愛と呼ばれるものなのだろう。
能力ではなく、一個の生物が『そこにいること』への愛。
『けものフレンズ』の根底には、『生きていること』への圧倒的な肯定がある。
フレンズたちは、全員が眩しいほどに生を謳歌している。そこには、自分の能力に対する卑屈さは微塵もない。
だからこうして惹かれるし、駄文を連ねてしまう。
『存在する』というあたりまえのことの素晴らしさを、『けものフレンズ』は思い出させてくれる。
だからかばんちゃん、できないことはできないままでいいから、どうかいなくならないでほしい。
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