傷口にユーゲル

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「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」総括(大場なな編)

最終回を迎えて個人的名作リストに加わった「レヴュースタァライト」を振り返る。

伏線や暗喩が多く、繰り返しの視聴にも耐えられる本作だが、別に登場人物の関係に尊みを見出しているだけでも十分に面白いので、カプ厨にも優しい。

というわけで、それぞれの気になる登場人物にフォーカスを当てる形で記事にしてみようと思う。



●大場なな

ななは本作のキーキャラクターであり、第7話でのネタばらしもあって、だいぶ作品の評価にも貢献した人物だろう。

その特異性は本編のとおりだが、『同じ時間を繰り返している』という性質に関連して、彼女は『舞台の演者であると同時に観測者である』という二面性を持つ。

たとえば、ストーリーの当初から、ななは写真撮影をして99組のみんなを記録に残していた。その際に頻繁に挟まれるカットは、スマホで目線を隠したななの顔である。



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2話登校シーン


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7話帰省シーン



他の子たちと同じ舞台少女でありながら、記録を撮る=観測者である際には表情を映さない。

この『目線を隠す』という演出は、9話のレヴューにも継承されており、ななの演者としての異質さを表している。


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9話レヴュー口上シーン


そして逆に、7話のラストではいわゆる『第四の壁』を破り、明らかに視聴者に対して目線を向けて話しかける。


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この視聴者への語りかけは、他に最終話でキリンが行ったのみである。

つまりこの瞬間、ななは演者であることを拒否し、観測者としての視座を明確にしたのだと思われる。


これらの演出は、ひとえにななが裏方であること=どちらかというと舞台装置に近い存在だということが示唆されている。


あくまでも『みんな』のための記録、『みんな』のための再演であり、なな自身はその裏に控えている存在なのだ。


『みんなのため』というのは、ななの根幹をなす動機である。

第99回聖翔祭に心を囚われていたのは、なな個人がその経験に焦がれていたからだけではない。退学していった同期の子たちのように、これから先、苦しみと挫折に煩悶するかもしれないクラスメイトを守るためでもある。


しかし、7話におけるななに対する真矢の発破は、ななにとっては『みんなと楽しく過ごせる』時間を否定するものになってしまった。

それが再演を促すことになったと考えれば、皮肉ではある。

舞台に実ったたわわな果実
だけどみんな柔らかだから
誰かが守ってあげなくちゃ


『みんな柔らか』というのは、ななの勝手な思い込みである。

『誰かが守ってあげなくちゃ』というのも、誰が頼んだわけでもない、なな自身のエゴの表出だ。


それでも、ななが選択した『再演の中で仲間たちと永遠に楽しい時を過ごす』という行動は、無邪気な善意に支えられた、ある意味では愛深いものである。

もちろん、(その記憶はないとはいえ)それに巻き込まれる99 期生(と全世界の人々)はたまったものではない。

しかし、だからといって、そのすべてを否定しないのがこの作品だ。


過去に拘泥するななに、未来への希望を見せつけて引っ叩く華恋と、再演を「あなたが大切にしてきた時間、守ろうとしてくれたもの」と表現した純那。

まるでわがままな子を叱る父親と慰める母親のようだが、そのおかげで、ななは一歩を踏み出すことができたのだった。



そして、ななだけに関連したことではないが、たびたび挿入されるミロのヴィーナスのカットについて。

聖翔音楽学園の広場?前に鎮座しているミロのヴィーナス像は、『不完全、可能性』の象徴であると思われる。


ご存知のとおりこの像は、発見された時点で両腕が逸失しており、製作された当初の姿がどんなものなのか、未だに結論が出ていない。

そして、それこそがこの像の魅力になっている。


ミロのヴィーナスは、見る者それぞれに、違った『かつての姿』を想像させる。
芸術を受け取る側みんなが思い思いの想像を巡らせる余地がある、不完全性の美なのだと。不完全であるということはすなわち、どんな姿でもありえたという可能性の芸術なのだと。

浄化される前のななには、受け入れがたいものかもしれない。

事実、本編でのミロのヴィーナスはあまりよい描かれ方をしていない。
特に、真矢とななの関係を描写するシーンにおいては。


まず、7話における、真矢がななを呼び出すシーン。

不穏な曇り空の下、ヴィーナス像を移すカメラがパンして、ななと真矢の会話が入る。


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このあとに展開されるのは、真矢のななに対する痛烈な宣言だ。


次に、3話において、裏方へ回ると発表されたななに対して真矢が激励するシーン。

役者とは違うフィールドでの活躍を期待する真矢という、ポジティブな場面ではある。が、ここでは真矢となながミロのヴィーナスを挟んで断絶しているようにも見える。


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常にトップを走り続ける真矢は、言い換えれば常に無明の断崖を走り続けている。自分の前に誰もいないということは、まさに可能性を切り開き続けていることに他ならないが、最も傷を負いやすい場所にいるともいえる。

一方で、ななは仲間が傷を負うことを許容しない。
可能性は悲劇の種火であって、不確かな未来よりも、完全な(と思っている)過去の1年間を繰り返していたほうがいい。

そんな断絶が、少なくとも9話までは存在していた。


このシーンのあと、どこからともなく飛んできた紙飛行機が、ヴィーナス像にぶつかって墜落する。
紙飛行機が真矢の比喩だとすると、彼女もまた可能性に敗北するかもしれないという現実を提示しているのだろう。

実際、再演の中で彼女は何度となくななに敗北している。


しかし、このヴィーナス像は9話において全く違う印象を与えるようになる。

レヴューに破れたななに寄り添う純那、彼女たちの後ろにある像が、まるで二人を見守っているかのように描かれている。


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そして、像のその肩には、ピンク色のキラめき。

この時点で、未来と可能性は、ななの敵ではなくなった。


そもそも、ななにとって『未来』が完全に疎むべき存在だったかには疑問が残る。

7話の時点で、キリンの発言した「誰にも予測できない、運命の舞台」にわずかながらも惹かれているような素振りがあったし、9話では次のように告白している。


あの一年が、もっと楽しく、もっと仲良くなれるようにって、再演のたびに、少しずつ台詞をいじったり、演出を加えたりした。

だけど、新しい日々は刺激的で、新しいみんなも魅力的で、どうしていいのか、わからなくなって……。


ひかりがやってくる前から、ななには『以前よりもいい再演にしたい』という意志はあった。

けれども、それがひかりの存在、ひいては華恋の再生産によって、『新しい日々』への渇望へと少しずつ変化していったのだろう。


なお、ミロのヴィーナスは、ギリシャ神話における女神アフロディーテを模していると考えれらている。
アフロディーテは、愛を司る女神であると考えると、どことなく暗示的でもある。


ななの愛は間違った形だったかもしれないが、少なくとも、純那はそれを許し、ななは再演を繰り返していた頃よりも成長することができた。

レヴューの最初に敗北した純那が、それを否定することなく、再演の時には負け知らずだっただろうななを諭してくれたことには感謝しかない。


敗北は終わりではないし、傷ついてもキラめきがなくなるわけではない。

それを学んだ大場ななは、舞台装置であることをやめ、一人の人物として、「レヴュースタァライト」の世界に再生産されたのである。