傷口にユーゲル

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「自分が障害者になっても同じこと言えるのか」論の持つ2つの問題

相模原の障害者施設殺傷事件の話題の時、たびたび聞いたロジックがある。

いわく、『容疑者は「障害者は生きているべきではない」と主張するが、もし自分が障害者になっても同じことが言えるのか』という主張だ。
容疑者本人、もしくはその行動や理念に共感する人に対して、非難の念を込めて使われることが多い。

これについての容疑者の答えはたぶんYESだと思うが、そもそもの問題として、この主張は2つの理由により、決定的に間違っている。



第1に、「自分が障害者になったらぜひ殺してほしい」と考える人に対しては、まったく説得材料にならないことだ。

『そういう人でも、実際に障害者になれば心変わりするだろう』という反論はもっともだが、そもそも最初の質問、「もし自分が障害者になっても~」という問いかけ自体が仮定の話なので、さらに「実際に障害者になったら~」という仮定を重ねるのは不毛である。
人間の心はそこまで厳密に見透かすことはできないし、少なくとも直接汲むことのできる、「私が障害者になったら殺してほしい」という今現在の意見がすべてだ。

それに、これを発展させると、逆に、「あなたも実際に障害者に接し続ければ、死なせるべきだと思うはずだ」という仮定による反論も可能となってくる。しかもこの意見は、上記と違って実際に障害者施設で働くなどして、一応は実行可能である。「実際に障害者になれば~」という、故意に実現させることができない仮定に比べて、むしろ建設的にすら見えてくる。

こう考えると、仮定によってそれぞれの思想や心に踏み込むような非難は、無意味どころか有害である。

その原因は、『人の感情に訴えかければ、正しい(と思っている)方向へ導くことができる』という、素朴な傲慢さに根ざしている。
他人を想像力の欠如した人間だと決めつけ、まるで「その程度のことも思いつかないのか」といわんばかりの不親切な行為なのだ。



第2に、自分が障害者になる可能性と、現在の障害者の生き死にはまったく関係ないことだ。

仮にあなたが、絶対に障害や病気にならない体を得たとする。
神の恩寵か先祖の加護か、未発見のウイルスかは何でもいいが、とにかく死ぬまで100%健康に生き続けるのが確定していて、元気に働き税金を納め、健康保険や障害年金など一切使わないで、生産性の塊のような人生を送るとする。

それでも、今生きている障害者は助けるべきなのだ。

「自分が障害者になっても同じこと言えるのか」論は、障害者と健常者の間に明確な線を引くことを否定しない。

この論については、時には新聞ですら同じような内容を文章にしていた。『障害者に対しての税金による手当てを無駄だと言う人も、自分がいずれお世話になるかもしれないのだから、支払っておくべきだ』という文脈である。

新聞記者ですらこんな文章を恥ずかしげもなく書いてしまうのだと、もの悲しい気分にもなる。
これはつまり、保険の考え方である。

『自分がいずれお世話になるかもしれないから、社会保障にお金を払う』という考え方は、容易に効率性の圧力に屈してしまう。

つまり、より若く、健康で稼げる人たちが集まり、グループを結成して内輪だけの保険を作ればいいのだ。
それなら、国の用意する不確かな社会保障などに頼らずに、より低コストで手厚く安定した保障を受けることができる。

もちろん、これは福祉などではない。

だが、『自分がいずれ障害者になるかもしれない』という一点を考えの基準にしてしまえば、待っているのは冷徹な効率と資本主義の論理だ。
線のあちら側に追いやられてしまう可能性は常にある。だから、それに対して備えをしなければならないし、それは効率的であるほうが望ましい。
そうなってくると、現在生きている障害者ではなくて、将来『そうなるかもしれない』仮定の事実について、心を砕き続けるしかない。

そうではなく、人を――障害者に限らずだが――助けるべきだから、助ける。
殺してはいけないから、殺さない。

結局のところ、問題の根っこに埋めておくべきなのは、こういったトートロジーにも思える『信仰』なのだ。
これに論理などないが、この世のすべてが論理で片付くわけでもない。

もし論理性が必要なら、人間の遺伝子には多様性が必要だとか、そういった説明を加えてもいい。
しかし、それは所詮後付けの理由でしかなく、『どんな人でも、人はとりあえず生かすべきだ』という信仰が、現代社会にはあるべきなのだ。

だから、「もしあなたが障害者になっても、殺してほしいと思うか」という質問にYESという答えがあったら、こう言うべきなのだ。

「それでも、あなたは人間だし、死ぬべきではない」と。


はせがわくんきらいや

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