シン・エヴァンゲリオン感想
見てきたんでネタバレ感想書きます。
考えてみれば小学生の頃からの付き合いで、とはいえ毎年エヴァのことを考えていたわけでもないので、まあ見に行かなきゃなという、従兄弟の結婚式に顔を出すようなつもりで見に行った。が、自分でも意外なことに、けっこう感動している。尾を引いているともいう。確かに完膚なきまでに終わらせてきたなという内容だったが、どうも従兄弟の卑屈さとか内省的なところは息を潜め、まっとうに働いてご近所付き合いもそれなりにこなし、言いたいことははっきり言うZ世代の影響も匂ってきたりして、つまりまともに成長してしまっていた。
だからといって置いていかれたという気持ちでもなく、とはいえ従兄弟の成長を喜ぶという感じでもなく、ただ、「そうなったんだなぁ」という感慨にふけりながら思い出ビデオを見ていた。そんな映画。
世界の状況はニアサーでボロボロだけども、ちゃんと救いのあるというか、人間って捨てたもんじゃないぜ的な肯定感のある雰囲気は全編を貫いている。冒頭のパリでの戦闘シーンからして、ネルフフランス支部の人が頑張って残した遺産をエンジニアのみなさんが頑張ってサルベージし、2号機と8号機を修理するという、人の継承的な営みを感じるミッションだった。それに冬月陣営のエヴァがJA的なちょいキモ発電機と、ラミエル戦を思い出すポジトロンライフル砲台というのも、ほとんど使徒っぽいアレな見た目ながら、技術的なバックボーンを感じさせてくれる。きっとオートメーションの工場が頑張って作ってくれたんだろう。冬月のおかげでまともな戦闘シーンが見られる。冬月はえらい。
しかしやはり重要なのは、前半の大部分を占める第3村の時間だろう。とにかくモブが生き生きとしている。アヤナミレイ(黒波)は田植えをしている。アスカはゲーマーとしてケンスケ家に就職し、シンジはその隣でカヲル爆死のショックが抜けずダンゴムシになっている。
第3新東京市の住人はほとんどネルフ関係の人々のはずだから、あのおばちゃんたちも家族か自分がジオフロントで働いていたんだろうか。世界線が違えば戦略自衛隊に焼き殺されていたかもしれないと考えると、この村の牧歌的な空気が貴重なのだと実感する。
シンジについては、失意からの復活という王道のパターンなので特にいえることはない。TV版と比べてカヲルと連弾してるぶん仲良くなっているのと、自分の代わりに爆死してしまったというのに、この程度のダメージで済んでいるのはタフな方なのではないだろうか。一緒に風呂に入るよりピアノ弾くほうが二人の距離の概算は縮まるのだ。
そしてそんなシンジにアスカは冷たい。まあ好きだった奴が14年ぶりに起きたと思ったら、どっかのイケメンと世界を終わらせようとしたんだから仕方ないが。ただ、「そんなメンタルでEVAに乗るな」という発言はなんというか、惣流への死体撃ちなのかと思った。ゲーマーとして無聊を慰める式波アスカは、ヒカリの家に入り浸ってゲームをやり続ける惣流アスカと重なる。もうちょっと優しくしてやってもいいじゃんおまえ前世ではバスタブの中で干からびてたんだぞと言いたくもなる。
しかしじゃあアスカはQのラストでの優しさを忘れてしまったのかというとそんなことはなく、ムーブ自体はわかりやすくツンデレで、姉貴というか、数ヶ月だけ年上のクラスメイトというか、そんな感じの距離感である。ここでのアスカはもう完全に姫ではなくて昔の友達で、子供の頃彼女がバカにしていたオタクとなんかいい感じになってしまっているのを横目で眺めているしかない。14年の歳月はまったくシンジの責任ではないが、それもまた現実である。
ではシンジを立ち直らせるのは誰なのかというと、これには黒波があてがわれている。レーションを無理やり食わせるアスカの働きもあったろうが、基本的には第3村の人々との交流で変化していった黒波のおかげでシンジは鬱状態から這い出そうとする。あと、単純に時間が解決したというのもあるかもしれない。
が、その代償として、ネルフから離れて生きられない黒波は死ぬ。
これ死なせなくてもよかったのでは? 綾波レイってそういう薄幸な人物なのはわかっていたが、なんともやりきれなさを感じる。人形のようだった少女は人としての感情を学び、短い生を精一杯生き抜いたという類型的なストーリーはできるのだが、美しさではなく予定調和が全面に出ていないか?
結局黒波の存在理由は何だったのかというと、TV版の綾波レイを成仏させることである。
トウジ家に居候していた黒波は、ツバメと仲良くなり、深夜に知らず涙を流し、「これは、涙? 泣いているのは、私?」という台詞をつぶやく。TV版で同じ台詞が生まれた時、「これは私の心。碇くんと一緒になりたい?」という発言があったことに注目したい。TV版の綾波レイは、シンジと1対1の心の交流を通じて、「一緒になりたい」という欲求を抱き、自爆寸前に涙を流す。一方、新劇の黒波は、第3村でのたくさんの人々との交流によって変化し、赤ん坊の前で涙を流す。
どちらがいいというわけではなく、綾波レイという人物にはどちらの涙も流せる可能性があったということなのだろう。
それぞれのシーンが、黒波は赤ん坊のそばにいる時、綾波は子宮の天使であるアルミサエルに同化されている時であるという点も、しゃらくさいところである。
TV版綾波は自爆後に3番目と交代するが、その淡白な態度と量産型綾波バラバラ殺人事件の合わせ技で、シンジを怖がらせてしまう。しかし、黒波は目の前でパシャンしたにも関わらず、その後のシンジは立ち直って前向きに行動していく。
黒波が第3村から受け取った経験をシンジが受け継いだと捉えても、大きく外してはいないだろう。「お母さんみたい」と言われて照れていた綾波は、子宮の天使を巻き添えに自爆し、シンジの命を救ったが、心には大きい傷を与えてしまった。一方で黒波は、わざわざプラグスーツが白くなるという演出までさせられてLCLに還るが、結果としてシンジを復活させた。
自分の感情が作られたものであると知っても、自分がそれでいいと思ったからという理由でシンジに無償の愛を捧げる。農業で汗水たらして、子守をして、好きな男を元気づける。『綾波レイ』には、そんな可能性があったのだと教えてくれる。
血と薬品の匂いのしていた少女は、土と草と風の匂いのする少女になった。
しかし、黒波は死ぬのである。
ありえたかもしれない『綾波レイ』の可能性と、シンジ復活への布石を遺して、黒波は中盤で退場する。仕方ないのだが、どうにも無念さが消えない。シンジはこの後立ち直っていき、終盤での怒涛の浄化ラッシュへとつながっていく。その過程でポカ波も救われるし、ウォークマンは黒波からシンジを経て、ゲンドウへと返され親子の対話を導くことになる。でも、できれば最終局面まで生きていてほしかった。3人目以降の綾波はいつも、LCLに溶けてしまうか巨大化するかだ。
ともあれ、黒波退場後、アスカとシンジを回収したヴンダーは、南極で姉妹艦みたいな奴3隻を1人で操る冬月と戦う。やはりこの人が一番やばい。
『シン』はエヴァというよりヴンダーを描きたいんだろうというのが伝わってくる戦闘シーンだった。もっと言うと、艦長としてのミサトをだろうか。
そのミサトにはなんと加持さんとの子供がいたらしい。息子に父親の名前をつけるというのもなかなかやばくないだろうか。
結局、ミサトは『Q』で言えなかったことをちゃんと言えたし、責任は自分で取るし、大人のキスなんかせずにシンジと会話して世界を救いに一人戦いに赴く。そして死ぬ。
この心境の変化はやはり、息子とシンジが仲良くしている写真を見たことだとしか思えない。シンジから息子のことを好きだとまで言われたら、吹っ切れもする。母は強い。「14年前あなたがエヴァに乗ってくれなかったら、私たちは滅びていた」。まったくその通りなんだけど、『Q』ではみんなそのことを忘れてたというか描写が意図的に削られていたので、ちゃんと言葉にしてくれたのはよかった。
しかし、サクラとミドリ(ピンク髪)は納得できず、シンジに銃を向けてしまう。このあたり、彼女らの心境も当然で、なかなか難しいところだ。このへんの新世代キャラは、エヴァに引導を渡すのに非常に効果的に配置されている。シンジを撃とうとするのもそうだが、やはり白眉は巨大綾波の登場シーンだろう。
アレを見た時は、「お久しぶりです! ちょっと雰囲気変わりました?」という感想だったのだが、ミドリの「なんかヘン!」という率直な意見には思わず笑ってしまった。そうなのだ。アレは変なのだ。旧劇をあまりにも当然のものとして受け入れていると気づかないが、なんであんなのがいきなり出てくるんだよ。おかしいだろ。そんなツッコミが、とうとう作品内から繰り出されてしまった。なんで頭だけCGなんだよ! と。
だからこれは、エヴァの供養の物語なのである。
初号機vs13号機のシーンも、これはギャグなのだと気づいてツッコまなければならないのだ。わざわざCGをチープにして、特撮のミニチュアのように建物を乱舞させ、撮影セットをぶち抜いて舞台裏をカメラに写してしまう。仕切り直しては同じアングル、同じポーズ、同じ配置でミサトの部屋や綾波の部屋や第3村を破壊していく。
映像として新しいことをしました。でもギャグだよねこれ。それでいい。
この最終決戦で必要だったのは、可能性の模索だけだ。ゲンドウも言っていたように、必要なのは暴力ではない。ロボットアクションとしての面白さは毀損されるが、フィクションというのは演出で世界を変えることができる。この最終決戦で提示されるのは、どうしようもなくこの映画がフィクションであるという事実だ。
ここからストーリーは怒涛の勢いでエヴァを成仏させにかかる。
これまでしゃべらなかったぶんを取り戻すように、ゲンドウは内面を吐露する。いわく、他人が疎ましい、ユイに出会って変われた、ユイのいない世界で生きるのが怖い、云々。
視聴者からしたら「まあ知ってた」という情報ではあるが、ゲンドウ自身の言葉として語られるのは新鮮である。オタクは人の目を見て話すことが苦手だが、顔面に穴を開けてそもそも物理的に目を見られないようにしてしまった割にはちゃんとしている。
そしてアスカの新事実。エヴァに乗ることでしか自己を表現できなかったTV版のアスカ。式波アスカは、そもそもエヴァに乗るために生まれてきた命という設定になった。
シキナミタイプで使徒だったり左目から柱が生えてきたり、終盤で猛烈に属性を追加されたアスカだが、基本は変わっていない。大人の男に憧れる、自分の心を見せたがらない少女。例の人形の中に入っていたのがケンスケだというのは、まあそうなるかなという感じ。ケンスケ明らかに落ち着いてるし村のために働けるし。やっぱピアノじゃなくてチェロを弾いておくべきだったよシンジ。
で、式波アスカはいいとして、問題は例の海岸に横たわっていたアスカのほうである。
明らかにここまでのアスカとはキャラデザが違い、プラグスーツは破れ、ちょっとむっちりな肌が露出している。目に包帯は巻かれていないが、旧劇のアスカを示唆しているのは明白だ。というより、これまでの惣流アスカと式波アスカと使徒アスカすべてを統合したような存在といってもいいかもしれない。だから、浮いたデザインになっているし、シンジと素直に会話してくれる。首を絞められ「気持ち悪い」とつぶやくのではなく、「好きだった」という内心を伝えあうという、これほどストレートに浄化の言葉を出していいんだろうかと戸惑うほどのサービスだ。
旧劇のシンジとアスカは、「最低だ、俺って」だったり、ウナギに食われているアスカを助けに行こうとしたけど初号機がセメント漬けにされてて諦めたり、『そもそも会話する』ということができていなかったが(TV版の終盤ですでにそうだったが)、ここで完全に和解する。「好きだった」という表現も含め、両者が大人になったことをこれ以上なく描写している。
この時点において、もはやシンジはシンジという役から離れ、エヴァに関わる全てを救済する救世主になる。
カヲルと例の場所で再び出会い、「君はリアリティの中で救われていた」という肯定の言葉をもらう。
初号機の中に溶け込んでいた、めちゃ髪の伸びているポカ波と再会する。
そして過去作のクレジットが目まぐるしく巡った先にあるのが、ネオンジェネシスとかいうなにものか。
それによって最終的に、シンジが神木隆之介になってマリとイチャイチャしているシーンが降臨する。
これ以降の一連のシーンは、食パン咥えた転校生と曲がり角でぶつかってパンツを見てしまったのと同じだと思う。
つまり、これもひとつの可能性の話。
シンジの声が俳優になって、ろくすっぽ知り合ってもいない女の手を引き、実写の世界へ走り出す。
これが物語であるなら、シンジがマリとくっつくのはありえない。作品として破綻している。
しかし、現実であるなら、その程度のことは問題にならない。緻密な伏線や興味深いメタファーなどは一切無視され、『ただありえたからある』ということが許される。男はおっぱいが大きい女ならそれでいいし、声変わりしたシンジはただ、マリと仲良くなりたかったからなった。それだけだ。
最終シーンで示されたのは、旧劇のようなフィクションとそれを眼差す者への冷水ではない。『現実に帰れ』というメッセージではない。
ただ、虚構と現実が等価であるという、オタクに優しい世界の提示である。
駅の外は現実だが、シンジは進んでそちらへ走る。向かいのホームにいるカヲルやレイやアスカも、それに続くかもしれない。
現実にいる我々には、2次元の住人が実写の世界へ漕ぎ出そうとしているように見えるかもしれない。しかし、ネオンジェネシスの世界では、2次元も3次元もその価値に軽重はなく、シームレスに繋がっているのである。
また、マリは単純に、『落ちもの』ヒロインであるという見方もできる。
『破』で屋上に飛び降りてきたように、マリは常に新劇を、主人公を新しい世界へ導く新鮮な風だった。エヴァに乗ることをためらわず、乗り換えや換装をしまくり、フランス語や中国語をしゃべり、めっちゃ距離が近い。TV版のカヲルくんの次くらいに近い。
虚構と現実が近づいていたあの駅のシーンでは、そんな『未知』を体現するマリがシンジのそばにいるのが、最もふさわしかったのかもしれない。
だから、シンジはマリとくっついたというより、成長した少年が、昔遊んでくれた近所のお姉さんの手を逆に引いて、飯を奢りに行っているといったほうがしっくりくる。
それがネオンジェネシスということでいいんじゃないだろうか。
カルロジョルダーノ チェロアウトフィット SC-100 4/4
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