傷口にユーゲル

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『鬼滅の刃 無限列車編』結核の青年とモノローグ

公開から時間も経っているので客入りもそこそこだろうとたかをくくって映画館に行ったら8割方席が埋まってしまっていた。小学校低学年くらいの子供も多く、それがみんな行儀よく集中しているのには感心した。目の前を通ってトイレに立った女の子の靴がぴかぴか発光していたのが気になったくらいだ。


映画の内容自体はさすがのクオリティといっていいだろう。善逸と伊之助のドリームランドがずいぶん掘り下げられていたのは笑ったけど。


ただ手放しでオール満足というわけでもなく、一点だけ微妙な気持ちになるシーンはあった。炭治郎の精神の核を破壊できなかった結核の青年が、現実に戻り涙を流すシーンだ。
原作では青年が炭治郎の夢の中でどんな経験をしたのか、ナレーションで説明されており、現実に戻ってからの彼の発言は、「ありがとう、気をつけて」の一言のみである。

それが、映画ではナレーションの部分を青年のモノローグとして補完しており、(僕の心を照らしてくれた)などといったフレーズを青年に語らせてしまっているので、どうも浮わついた感じに聞こえてしまった。
私が原作を先に読んでいるせいかもしれないが、ナレーションで説明を済ませているからこそ、「ありがとう」につながる彼の心情に想像の余地が生まれ、炭治郎の心の清さを印象付けることになるのではないだろうか。

もちろん、アニメ版は一貫してナレーションを廃し、映像と演技の説得力で説明をしているのだということはわかる。
だからこそ、ナレーションを登場人物のモノローグに落とし込むのではなく、いっそばっさりカットして欲しかったと思っている。このスタッフの技量なら、それで十分青年の存在感は表現できるだろう。

実際、煉獄と三つ編みの娘が膠着状態になった時のナレーションなどはきれいにカットされているが、特に流れとして問題はなく鑑賞できる。

あくまで私の解釈だが、青年が現実に戻った段階では、炭治郎の心の中で経験したことを客観的に言語化できるような心境ではなく、しかし確実に心を温められたことの発露として、涙を流し、礼を言ったのだろうと思っている。
だから、このシーンでは、青年に説明をさせるという手法は取ってほしくなかったというワガママである。


アニメのほうはほぼ間違いなく最終話まで続けるだろうが、これから先、ナレーションを封印したままでいくのならちょっと残念なところもある。原作のナレーションには好きなフレーズがいくつもあるので。

そもそも鬼滅の刃は、言葉でそうとうに説明してくれる漫画である。
その説明をだいぶナレーションに任せているのは正解だろう。これをすべてキャラクターに言わせていたら、冗長にもほどがある。そもそも今の時点で説明台詞もけっこう多い。

だから、アニメ2期をやるなら、しれっとナレーションを挿入してくれないかなと一瞬思ったが、1期でずっとナレーションなしなのにいきなりそういうわけにもいかないか。と思い直す。

前述のように三つ編み娘もそうだし、青年たちが手首をつないでいた縄を刀で切ったらどうなっていたかというのも説明は省かれているが、あまり違和感はなく、なにか悪いことが起きるのだろうという想像はできる。
そんな感じで、続編でもある種視聴者への信頼を念頭に置いた演出がされていくのではないだろうか。


最後に、ラジオでも言及されていたが、炭治郎VS魘夢の強制昏倒催眠の囁きはすばらしい演技だった。ねっとりとした呪詛めいた呟きが、しだいにシリアスで硬質なものになっていくのは聞き惚れてしまう。原作では一瞬で終わった闘いも、ずいぶん尺をとって厚みのあるものに仕上げられていた。炭治郎が一瞬千鳥足になって持ち直す表現も好き。


最後の魘夢の恨み言は、敵ながら哀れを誘う。実際猗窩座がもうちょっと早く来てくれてれば全滅してただろうし。
前座前座と言われがちだが、十分怖さと存在感を持った敵役になっていたと思う。