「人生に、文学を。」という広告の正しさ
日本文学振興会が炎上している。
煽るような広告になってしまっているので燃えるのも仕方ないが、炎上マーケティングなのかというとそれは違うと思う。
特定の商品を宣伝しているわけではないし、話題になっているとはいえ、炎上案件だからと寄ってきた人たちが、じゃあ帰りに文藝春秋を買っていこうとなるわけではない。
協賛企業にしても、「こんな広告に賛同するなんて」というイメージを植え付けるマイナス要素のほうが強く、炎上のメリットはない。
問題になっている「(アニメか?)」の部分は、ライターからすれば、これほど激烈な反応を引き起こすとは考えていなかったのだろう。
実際のところ、この広告は、おおむね本来の役割を果たしている。
そういう意味では、実に正しい。
本来の役割とは何か。
読まれるべき人に読まれることである。
読まれるべき人とはつまり、おっさんおばさんである。
そもそもこの広告は、水曜日の各紙朝刊に、1ページまるまる使って掲載されていた。
帝国ホテルに飾られてもいたらしいが、大部分の人は、『新聞で見た』か、『炎上してから公式・関連サイトを見た』かのどちらかだろう。
そして、この公式サイトなど、今回の件がなければアクセス数は10分の1もなかったと断言できる。
ということで、本来この広告には、新聞を介して人の目に触れるという前提が厳然として存在していたのである。
これはどういうことか。
この記事によると、新聞のメイン読者は60代~70代の男性である。
つまり「人生に、文学を。」の広告は、中年~老年世代へ向けて発信されている。
この世代の人たちの何割が、アニメを習慣的に観ているだろうか。
新聞の広告欄など、保険や寝具、旅行、アンチエイジングなどといったものばかりである。
絶賛若者締め出し中のメディアなのだ。
そういった人たちに向けた広告なのだから、アニメファンに対して無神経とも取れる書き方なのは分かる話である。
無邪気な傲慢さが匂う文面でも、アニメのことをよく知らない人ならスルーする。
『よくわからないもの』『広く人気のもの』の代表として、たまたまアニメが選ばれたのだろう。
この広告はおおむね2つの効果が期待できる。
ひとつはそのまま、文学作品を手にとってもらう機会になるという効果。
もうひとつは、読者の自尊心を満足させるという効果。
文学というのは、なぜか権威に埋め込まれやすい。
「読んだよ」と宣言できることが、文学を読むことの効用のひとつとも言える。
「文学を読もう」と言われて、「もう読んだよ」と言うことが優越感になる人は、この広告を好意的に捉え、いい気分にひたることができるかもしれない。
実に効果的な広告と言えば言える。
文学は紛れもなくメインカルチャーだが、メインであるがゆえにその地位は常にサブカルチャーに脅かされる。
だから、時には広告を打つなどして守ってやらなければならない。
文学という文化が貧弱なのではなく、大衆は常に、ちょっと人に隠れて楽しむような趣味を欲するものなのだ。
だから、もしライターがアニメを下に見るような意図で広告を書いたのなら、ある意味逆に安心である。
アニメは未だ『よくわからないもの』であり、多方面を脅かしていけるポテンシャルがあるということだ。

- 作者: 佐藤友哉
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