傷口にユーゲル

主にアニメとか漫画とか仕事のこと

『天気の子』感想 現実と地続きの世界で

ネタバレを含む感想。あと『君の名は。』と『言の葉の庭』にも触れる。
















だいぶ真っ直ぐなボーイミーツガールだなー、エロいお姉さんとかイケショタとかサイドのキャラもツボを押さえてるなーと見ていたら、東京が水没していてびっくりした。


『好きな少女と世界のどちらを取るか』という古典的な命題をやるのはまあいいとして、その答えが『好きな子を取ったので世界が壊れました』というストレートなカタストロフィなことに痺れてしまう。

しかもそれが過去作を巻き込んだ悲劇であることは、特筆すべき点だろう。


劇中で瀧や三葉が出演した時は、「ちょっと安易なファンサービスだけどしゃーないんだろな」と軽く考えていた。しかし、その後に東京が水没したとあっては話は別である。『天気の子』と地続きな『君の名は。』と地続きな『言の葉の庭』。ここまで遡った両作品に、『結末の後に東京が水没する』という公式設定が付加されてしまった。

『天気の子』視聴後に『君の名は。』や『言の葉の庭』を見た時、「でもこの後水没したんだよね……」という情報がちらついてしまうのは避けられないことだろう。もはや呪いと言ってしまってもいいかもしれない。三葉が憧れ、瀧が暮らした街並みも、雪乃先生が金麦を飲んでいた新宿御苑も、等しく水の下から元の姿に戻ることはない。


それでも過去作と本作を地続きにしなければならなかった理由はなんだろう。



主人公の帆高は良くいえば等身大、悪くいえば思春期のざらつきを露骨に出したキャラクターである。

家出した理由は特に語られず、頼るものもなく上京してネカフェ難民を何日かしたあと、フェリーで出会った須賀に拾われてライターもどきの仕事をする。
ヒロインの陽菜は、帆高とともに『晴れ女』としての才能を、人助けとちょっとした商売に活かしていく。
しかしかけがえのない時間は、警察という社会機構の介入や、陽菜の人柱としての運命によって奪われてしまう。


陽菜が消えてしまったあと、帆高は彼女が雲の上にいることを確信し、警察から逃走する。エロいお姉さんがタイミングよく原付でニケツしてくれて、大雨から復旧作業中の線路へ登り、廃ビルの神社へと走っていく。

廃ビルでは須賀が帆高を説得するが、陽菜に会いたい一心の彼は、威嚇とはいえ拾っていた拳銃を撃ち、屋上の神社へと急ぐ。

正直に言うと、このへんで帆高のことを「なかなかのクソガキだな」と思ってしまった。

実際、帆高の各所の言動にイラッとした人も多いのではないだろうか。

しかしそう思った次の瞬間、自分が須賀に感情移入していることに気づく。


須賀は本作の第2の主人公と言って差し支えないだろう。

食事と住居以外の給料をほとんど支給せずに未成年を働かせるダメな大人だが、『大人』としての立場から、帆高に対して家に帰ることを促し、廃ビルで仲裁し、最終的には帆高の意志を尊重してリーゼント警官に殴りかかる人物である。

帆高が陽菜を取り戻すことで、東京は3年間雨が降り続き、水没してしまう。
これについて、須賀は帆高が感じている責任を否定してくれる。自惚れるなと。

警官を殴ったのだから、母方の祖母に預けている娘は引き取ることができなかったろう。それでも、娘と仲良くしているらしい写真を見せてくれる須賀は『大人』として実に眩しい。


そう。須賀は大人である。なので帆高の背を押してくれるし、いい感じの言葉をかけてくれる。
瀧のおばあちゃんも、東京はもともと水底にあったと帆高に教えてくれる。


『天気の子』は、主人公のエゴと社会の秩序が対立する物語である。

同時に、一部の大人たちが、その対立は対立ではないのだと言ってくれる。
『好きな少女と世界のどちらを取るか』という命題には、前者を取っていいのだと。世界を狂わせたというが、それが『異常』であることなど誰が証明してくれるのだと。


それはとても力強く、暖かく、優しい言葉だ。
すばらしい結論だと思える。


だが、実際に水没したのは、『天気の子』の世界であり、『君の名は。』の世界であり、『言の葉の庭』の世界だった。


この事実に立ち戻るにつけ、思う。ほんとに素晴らしい結論なのだろうか?




断言してしまいたい。


『天気の子』が『君の名は。』や『言の葉の庭』の世界と地続きなのは、帆高に対して「何してくれんだこのクソガキ」と思わせるためである。



須賀や瀧のおばあちゃんは、帆高に優しかった。
水没した東京で生活する人達も、たくましく環境に適応していた。

しかし、作中で触れられなかっただけで、真相を知れば帆高や陽菜に対して怒りを覚える人もいただろう。
財産や故郷や思い出の場所を失った人も数多くいたはずだ。


そして、それは観客にも当てはまる。

作品が地続きであることで、観客の『君の名は。』および『言の葉の庭』における思い出は変質した。

それが大きいか小さいかは別として、これまで普通に見てきた作品が、帆高の行動のために違ったニュアンスを持つことになったのだ。

大げさに言えば、作中の主人公の行動が、観客の現実に影響を与えたのである。


こう考えると、いくつの企業とタイアップしたのかと数えたくなるくらいに頻発した、現実の企業ロゴや建物や商品たちが、別の意味を持つように思えてくる。
作中に限りなく登場した実際の商品や風景や音楽は、『ここ(作中世界)が現実と地続きである』という意図を観客に刷り込ませる働きを持つのではないだろうか。


そして、東京が水没したことを思い返し、私は考える。

自分がこの『天気の子』世界にいて、須賀と同じ立場だったら、同じようなことを帆高に言ってやれるだろうか、と。


物語は、帆高の行動に対して、暖かな肯定で答えた。
だが、それに終わらず、この物語は問いかけてくる。


『あなた』はどう思うのか? と。


物語は、『世界が壊れるとか知らねー』と言ってくれている。
だが、実際に『過去に触れた作品』という世界を壊された観客は、同じことを思っていいのだろうか?


『天気の子』は、物語の構成上、帆高を肯定し、ハッピーエンドを演出しているが、観客に対してはいっそ冷酷に断罪の理由を並べてくれている。過去作品を引き合いに出してまで、帆高を『ひどいやつ』と見なすだけの材料を用意してくれている。


この矛盾の中で、私は帆高を嫌うべきなのだろうか。


答えはまだ出ない。

とりあえず金麦を飲みながら考えることにする。