傷口にユーゲル

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小説感想「少女庭国」

変な本を読んだ。


〔少女庭国〕 (ハヤカワSFシリーズJコレクション)


思いっきり表紙詐欺である。ハヤカワから出ているのでSFはSFだが、ホラーな要素も強い。
作者は角川ホラー文庫出身らしいので、なんとなく納得。

内容的には密室に閉じ込められた女子中学生たちがあーだこーだする、脱出ものといえなくもない。が、個人的には内容が非常にグロテスクで、少しばかり吐き気をもよおすレベルだった。この感覚は、高校生の頃に電車の中で乙一の「暗黒童話」を読んでしまった時以来だ。

で、何がグロいのかというと、いわゆるスプラッタ描写だとかそういうのはまあぼちぼちだが、それ以上に登場人物の淡々とした行動原理が違和を覚える。
もっと言うと、コズミックな舞台装置に織り込まれている悪意とでもいうようなものが、あまりにも冷然としていてグロく見える。

以下、ネタバレつつ感想。









「少女庭国」は本編と補遺から構成されており、ページの大部分は補遺が占めている。むしろ本編はプロローグのようなものだ。
舞台はいくつもの部屋が横に連なった閉鎖空間。
壁の両側に扉がついているが、開けることができるのは片方の扉だけ。扉を開けると同じ仕組みの部屋があり、それぞれの部屋には少女が1人寝かされている。

扉には張り紙がされており、『ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n-m=1とせよ。時間は無制限とする』という意図の文章が書かれている。
つまり脱出するには、ドアが開けられた部屋の少女を自分以外皆殺しにしなければならない。


そして本編においては、閉じ込められた少女らは、驚くほど冷静に生き残るべき1人を選定し、張り紙の内容を実行する。
補遺においても、おびただしい数の少女たちが登場するが、泣いたり喚いたりするのは少数派で、かなりの人間が現状を受け入れ、冷静に行動する。
これがひとつのグロテスクさである。

冷静に行動した結果、殺しあう者もいれば、閉鎖環境で生き抜くことを考える者もいる。
生き抜くという場合は頭数が必要で、人数を揃え、壁を掘り進めて生活の範囲を広げていく。
そのために、人間を食料とするというのは序の口で、奴隷制の導入、体制維持のための監視社会の成立など、まるきり閉鎖空間の中でひとつの文明が育っていくかのような様が微に入り細を穿って描写されるのだ。
ありえないだろうと思ってしまっても、なんとなく納得させられる奇妙な説得力がある。

それを書く文章もある意味軽妙洒脱で、悲惨な内容をどこか牧歌的に、あるいは歴史の教科書でも書くように描写してくる。それがまた妙な気持ちになってくるのである。




クリティカルな話をすれば、この小説に出てくる少女たちはおそらく人間ではない。
命名の仕方からしてそれは示唆的で、この本に出てくるおびただしい数の少女の名前は、すべて○○子で統一されており、しかも話が進むに従って、明らかにありえないような名前が連発される。

つまり彼女らは代替可能のプログラムのようなものであり、無限に続く部屋の中でシミュレーションを行わされるためだけに生まれた存在なのだ。張り紙に書かれたn-m=1という式も、いかにもそれを想起させる。
しかしそれが普通に人間として振る舞うため、得体のしれない罪悪感のようなものを読者に植え付けてくるのである。

部屋は無限に続く。少女たちも無限に生成される。
無限だから、あらゆる可能性が存在する。

ある少女は偶然ポケットに野菜の種を持っていたため、それを植え、大事に育てた。
それは奇跡的な巡り合わせのはずだったが、少女は死に、その種は育たずに枯れた。
悲しいエピソードだが、シミュレーションでしかないため、その結果は淡々と数行で報告を済まされる。

奇跡的な偶然のはずだが、この部屋の数は無限であり、似たような奇跡はどこか別の部屋でも起きている。
奇跡に狂喜する少女も、不運に落胆する少女も、すべて観測者のために生み出され、死んでいく

プログラムであるのなら気にもならないが、それに人格がついているということで、グロテスクさが加速していくのだ。
作中でも、外部からの目線というものには言及がある。

「ルールがあるかは判らないけど無限に舞台と人員がいて遥か遠景からこの場所を眺めてれば、様々な殺し合いのお話ならお話がゲームならゲームが種々まるで自動的に生成されて実行されていくような景色がきっと見えるはずなんだ。(中略)シチュエーションだけ作って最初だけ手を入れて、あとは窓とかディスプレイとか見られる媒体があれば何もせずともぼんやり眺めてられる。日々伸びる背を、色づく様を、咲いては枯れる観賞用の殺し合いの種を撒いた無限の庭の移り変わりを」

小説だから、キャラクターには感情があり、バックボーンがあり、一喜一憂がある。
しかし「少女庭国」では、キャラクターを舞台装置の一部にしてしまい、シミュレーションの道具にしてしまう。
そのギャップが、感じるグロテスクさの根底にあるのだろう。

そうしてその世界を構成している一端に、読者自身も含まれているということに気づくに至り、微妙な顔をして嘆息するか、傑作に出会えた感動を噛みしめるか。
私はどちらかというと後者だった。


変なストーリーではあるが、どうしても心に残ってしまう。
気持ち悪いのに、続きが気になって仕方なくなる。
そんな本。