傷口にユーゲル

主にアニメとか漫画とか仕事のこと

「異世界スマホ」は神話である

異世界はスマートフォンとともに。」は特異なアニメである。

手違いで死んでしまったお詫びに神様からチート能力を与えられ、異世界をエンジョイするという、なろう界隈ではテンプレートな内容だが、それを突き詰めて映像化すると、すさまじい異質さが漂う何者かになってしまった。

主人公の冬夜は、端的にいって万能である。ストーリー上におけるあらゆる障害は、モーゼがビニールプールを割るかのごとき容易さで処理され、ゴミのように片付けられていく。

この作品の根底にあるのは『平坦さ』であり、そこにハラハラドキドキなどという感情は付け入る隙がない。ひたすらに既視感のある世界で既視感のある事件が起き、特に意外でもない方法でそれを冬夜が解決していくだけの記録である。

しかし、それは「いせスマ」の魅力を減じる要素にはならない。『クソアニメ』『主人公がサイコ』『スマホが無意味』『虚無』などと散々な評価をもらいつつも、本作は確かに一部の人々の記憶に刻まれていくはずだ。むしろ、この虚無的な要素が本作の価値と言ってもいい。



本作において、主人公の冬夜は神である。

それも、生半可な神ではない。世界の神話の神々は、しばしば人間的な要素を含むが、冬夜の場合は正しく全能で、非人間的である。

作中のいかなる問題も、彼の万能性を引き立たせるために存在し、流れ作業のように消費されていく。


「いせスマ」に物語は存在しない。

全能たる存在がフィクションの中で振る舞う場合、キャラクターは物語には一切縛られず、逆に物語を屈服させる。

その全能が主人公たる本作は、もはや各種のイベントが回転寿司のように消費し続けられる観察記録に近い。

八重の故郷であるオエドへ向かうことになった時も、当然のように彼女の脳内を読み、ゲートを使って一瞬でワープしてしまった。普通なら旅ものとして格好のエピソードになるはずだが、そこを大胆にカットしてしまうのが本作の妙である。



神は物語を殺す。スタートとゴールを最速で繋げてしまう。

しかしそれ故に、神が視聴者を裏切ることはない。あらゆる障害は障害としての意味をなさず、太陽が東から昇るのが当然なように、絶対的な安心感を継続して与えてくれる。

現代に伝わる神話と呼ばれるものは、登場する神々の非全能性により、その安心感に欠落を抱えているのだが、「いせスマ」は違う。真に全能たる神は、全てにおいて快刀乱麻を断ち、あらゆる事象を些末事と切り捨ててしまえる。そこにあるのは無限の平穏であり、温い揺りかごのごとき虚無である。

ただ楽しむために視聴するのとは違う。これは、心に優しい空白を与えるために摂取する、現代のサプリメントだ。

かつて人は、太陽や夜空の星々に神を見たが、現代人は、週に1度の23分間に神の存在を感覚する。
神は過たずそこにいる。それは、神の不在が当然となった現代に生きる我々への救いだ。



さらに神は、状況に応じてその顔を変える。

自分が死んでしまったことをあっさりと受け入れる精神性の持ち主であるにも関わらず、ヒロインの前ではきっちりとハーレム系主人公としての振る舞いをわきまえ、異様な頻度で挿入されるアイキャッチでは、謎のテンションで腰が抜けるような脱力感を与えてくれる。
唐突に探偵ごっこを始めたかと思えば、スマホのことは忘れたようにガンスミスになったりもする。

いくつものペルソナを使い分けることで、視聴者に無数の主人公像を提供しているのだ。これもまた、神らしい振る舞いである。

また、アニメ11話においては、一夫多妻の可能性も示唆された。これは無論、しばしば神話に登場するファクターである。


「いせスマ」は、どこまでも全能たる神の日記帳である。それは新たな形の神話であり、人の心を暴力的なまでの平穏に包み込もうとする試みなのだ。


かみちゅ! 1 (電撃コミックス)

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